安楽死について。

過日、NHKスペシャルで放映の【彼女は安楽死を選んだ】を視聴しました。

安楽死を望んだ ご本人と2人の姉の名前と容姿をオープンにし その考え方をありのまま放送した内容で

大変感銘を受け 深く思考させられたドキュメンタリー番組でしたので 初回のブログに載せました。

 

 

新潟県在住で4人姉妹の3女のミナさん51歳は、日々に体の機能が奪われていく神経難病の

多系統萎縮症と言う病気を患っています。

全身が激しい痛みに襲われる為、薬によって症状を抑えていて 進行すると体の機能が奪われ

体を動かすことも話をする事も出来なくなってしまうと言う 原因も治療方法も十分に解っていない難病です。

 

ミナさんはチャーミングで聡明な女性でした、高校卒業後 日本を離れソウル大学に進学 卒業後

日本に帰り韓国語の通訳等をして活躍していましたが 48歳で多系統萎縮症の告知を受けました。

 

ミナさんはたどたどしい口調で心情を吐露しています。(地元病院の個室に入院中の番組取材にて)

「私が寝たきりで天井をずっと見つめてても、苦しがってる様子を見ても、生きてて欲しいと思いますか?

 確実に私が私らしくなくなるんですよ、それが本当に怖いことです。天井を見ながら毎日を過ごし

 時々食事を与えられ 時々おむつを替えてもらい、果たしてそういうふうな日々を毎日過ごしていて

 それでも生の喜びを感じているのか 生きていたいと思っているのか自問自答するわけですよ

 自分で死を選ぶことが出来るという事は、どうやって生きるかという事を選択する事と

 同じくらい大事なことだと思うんです、安楽死を皆で(日本)考える事は私の願いでもあるんです」

 

ミナさんは時間の経過と伴に体が動かなくなって行く自分を悲観して何度も自殺を試みますが

体力が無いために未遂で事無きにいたります。

自分で自分自身の尊厳を守りたいとの想いで安楽死を望んだミナさん・・・

回復見込みのない植物状態に向かう自分を嘆いていた時に、安楽死という最後の有り方に

縋ったのです。

しかし日本では安楽死に対して踏み込んだ議論は行われずにタブー視されて来ました

 

 2011年に設立されたスイスにある安楽死団体の一つライフサークルにミナさんは登録を行いました。

スイスでは安楽死について住民投票などを通じて何度も議論を重ねた様です。

その中で死の有り方を選ぶのは個人の権利だという考えが国民に広く支持され法律の解釈で容認されています。

スイス人が最も重要視しているのは自らの権利を行使したいという事

生きることも死ぬことも与えられた権利であり、個人の考えを最大限に尊重することなのです。

 

ミナさんは焦りを感じていました、ライフサークルから対応が遅れるとのメールが届いたのです。

登録したものの、いつスイスに行けるのか決まっていません、自分の体の進行具合を考えてみると

3~4ヶ月後なんてスイスに行ける体力が有るだろうかと疑問に思い、動きの悪い指でキーボードを叩き

緊急のメールをライフサークルに送信して意思を伝えました。

 

スイスの安楽死団体は短絡的に死を選ぶ事を容認していません。

本人の強い意志の確認と 複数の医師が安楽死の要件を満たしているかを慎重に見極めます。

幾つもの条件をクリアして本当に安楽死を行うことが正しいかを判断します。

 

(安楽死に必要な主な条件)

・耐え難い苦痛がある・明確な意思表示が出来る

・回復の見込みがない・治療の代替手段がない

 

ミナさんは安楽死を行うことを認められました。

スイスに付き添って来た2人の姉と最後の晩餐を行い朝まで一緒に過ごし当日を迎えたのです。

病院に着くと直ぐに本人の最終意思確認を行い誓約書にサインをしてベッドに横になりました

現地警察に提出用のビデオ撮影で 安楽死が本人の希望によるものだとの証です。

担当医師が点滴に薬を注ぎミナさんはその薬剤を開通させるスイッチをいれました。

60秒程で全ての苦しみから解放されて 眠る様にして臨終を迎えたのでした。

ミナさん 52歳の生涯です。

日本では安楽死は認められていないために現地で荼毘に付され 遺灰はスイスの川に流されました。

 

 

古来からの人類の永遠のテーマ( 生と死 )

不確定な世の中に在って唯一絶対的に確定している事実  誰人も逃れる事の出来ない「死」

万一不治の病に倒れたとして 植物人間として延命措置の下に生き続けるのか

安楽死を望むのか・・・  難しい決断です。

 

小島ミナさんのご冥福をお祈りします。   

                  合掌

 

 

P.S.

もしも 私自身だったらどうするのか・・・

ベッドに寝たきり状態で体を動かすことも出来ず、意思伝達も叶わず、瞬きさえも出来ない状態で

人工呼吸器を装着しての延命措置を施して 尚 生きながらえるのか・・・

全て他人の手を煩わせなくては生きて行けないとしたら、最早や人としての尊厳を失ってしまうに

等しいのではなかろうか・・・

自分自身の最後の有るべき姿の選択、安楽死を選ぶ権利が有っても良いのではないのでしょうか。

 

俗に言う *ピンピンコロリ* ぎりぎりまで元気で過ごして 死ぬ時には苦しまずにポックリと逝きたい

こんな理想的な人生とその終焉を送れたら幸せですが。。。

  

 December 15th, 2019

 

 

※ブログを読んだ友人が次の様な考えを伝えてくれました。

           ↓

寝たきりになると、人としての尊厳を失ってしまうのか?

このところをどう思いますか?

自分がそうなったら嫌だなあと言うのは誰もが考えることで、別段問題になることでは

ないのではないかと思われるのですが、実は、この背景には命の価値とか実存の問題が

潜んでいるのです。

寝たきりや人の世話にならなければならないと言う状態を嫌う背景には、そうなった人には

価値がないという思いが有るのです。

介護施設で起きた殺人事件にも繋がっている、犯人は寝たきりのコイツラには価値がないと

言って殺害しました。

自分が寝たきりになったら嫌だなあと言う思いには、こうしたところにも繋がっていくものが

有るのです。

自分の命で有って 自分の命では無いのです。天から与えらえたものなのだから

自分で死を選ぶ権利は無いのです。

 

 

大変貴重なご意見を有難うございます m(__)m

寝たきりと一口に言っても、その状態は様々あると思います。

不治の病で耐え難い苦痛に襲われても成す術が無く、回復の見込みが全くない状態で

その苦しみを訴える手段も言動もとれないとしたら・・・

人間としての価値が有る無しの以前に、当事者としてはその苦しみから逃れたいと思うのが

至極 当然であると思います。

もし天から与えられた命で有っても地獄の様な悲惨な状態の中で生き続けるとしたら

それこそ 人の尊厳は守られるのでしょうか・・・?

 

大変に重たい問題です。

様々なご意見が有ると思います。